グローバル

やっとたどり着いたプロダクトラインマネージャーという仕事

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「どんなに高くとも乗り越えられない壁はないと思っています」松田さんがそう断言できるのは、幼少期からのアメリカ生活から学んだことが大きい。「グローバルな仕事で日本を元気にする」。それが松田さんのポリシー。彼のこれまでとこれからをじっくり伺ってみました。

自分が本当にやりたいことは何か?

大学で地球科学を学んだ後、某エネルギー商社に就職しました。1年間、間接部門で会計や総務的な仕事をしながら会社の全体像を学び、2年目よりコア事業である産業ガスの営業部門に配属されました。担当したのは支店、子会社の営業統括の仕事です。本部の経営ビジョンに沿った営業戦略を現場に降ろし、全体を統括する役割でしたが、実質的に新人の自分は逆に教えられる立場でした。

入社後の1年間、間接部門で会社の全体像を学んでいたときに、組織の在り方や制度・慣習など改善すべき点が気になってはいたのですが、営業統括に異動してからはさらに自分の目指す将来像と、会社の体質にズレがあることに気づいたのです。「専門性を活かし、グローバルな仕事がしたい」という思いで入社しましたが、経営側にはコア事業の産業ガス分野で中軸となって活躍して欲しいという意向があったようです。さらに出世欲のない私は、「上を目指す」という意識の強い周囲とも馴染めませんでした。

就職活動において、「グローバルに活躍でき、スピード感があり、自己成長できる」という軸で会社選びをしていましたが、具体的に「何がしたい」というものはなかったかもしれません。大学を選んだときも同様で、何となく環境に興味があったからという理由だけで、将来の明確な方向性を持って学ぶべきことを選択したわけではありませんでした。大学での4年間は充実していたと思います。地球科学という学問はとても面白いものでした。しかし、働くことを軸にして大学を選ばなかったことが、社会人になってからも明確な目標を定めることができなかった要因だと思いますね。

日米の異なる文化により育まれたパーソナリティ

私がグローバル企業で活躍したいと思うようになったのは、小学2年から6年までをアメリカで過ごしたことがきっかけだと思います。アメリカで過ごした5年間、私は「日本人としてのありのままの自分」をさらけ出していました。そんな私はアメリカの子どもたちにとって珍しかったのでしょう。学校では結構いじめられました。そして小学校卒業のタイミングで日本に帰国したのですが、半年間だけ小学校に編入することになったのです。

アメリカでは「異質な日本人」として見られていましたが、帰国後の日本でも「アメリカかぶれの変な奴」と見られ、やはりいじめの対象となってしまいました。日本とアメリカの2つの異なる文化を体験したからでしょうか、「自分をオープンにして周囲と接しかつ相手を許容する」という日本とアメリカ双方の良いところを併せ持ったパーソナリティが形成されていたため、いじめをいじめと思わない強い自分がそこにいました。また「壁があっても乗り越えられる」というメンタリティを持つことができたのもそのお陰だと思います。

グローバル志向になった要因として、高校・大学時代に世界を旅したことも影響していると思います。発展途上国を中心にバックパック旅行を何度もしたのですが、世界の現実を自分の目で確かめたことがグローバルな視点を持つことの重要性を認識させてくれた気がします。

自己実現から社会貢献へ

営業統括部門へ異動後すぐに転職活動を開始し、間もなく半導体商社マクニカへの転職が決まりました。若手が活躍し、海外との仕事ができるところと、属人的でない社風が魅力でした。担当した仕事は、海外の半導体メーカーから製品を輸入して国内で販売するための折衝業務です。海外メーカーとの折衝は新鮮で刺激に満ちていました。まさにグローバルな仕事を実感しましたね。それまでぼんやりとしていた「仕事の価値観」が明確になった気がしました。

やがて仕入先の新規開拓に携わるようになると、ゼロイチの仕事の面白さを改めて感じるようになりました。もっと自分を成長させたいという思いが強くなっていきましたね。実は、営業先であるアメリカの半導体メーカーのマネージャーから転職の誘いを受けましてね。結果的には転職には至らなかったのですが、このことが大学院に進むきっかけとなりました。誘ってくれたマネージャーはMBAを持っている方で、プロダクトラインマネージャーとして製品定義、開発、マーケティングとあらゆる部分に携わっていました。プロダクトラインマネージャーという仕事に強い興味を持ち、技術商社の営業という立ち位置でセールス以上のことをやるためにはマーケティングについてきちんと学ぶべきだと気づいたのです。

次の転職先としてアメリカの半導体メーカーを意識しはじめたとき、東日本大震災が起こりました。これは私の価値観を根底から覆すほどのインパクトを与えるものでした。自己成長、自己実現を第一に考えてきた私が、日本という国に対して自分が貢献できることは何かと考えるようになったのです。リーマンショック以降のデフレ経済と震災ショックですっかり元気を失ってしまった日本の製造業を元気にしたい。そう強く思うようになりました。

実績の先にこそ未来がある

マクニカ入社時からいずれは転職するだろうとは思っていました。キャリアを積んで次のフィールドを目指すのが当たり前の風土でしたし、私自身多くの人々と出会い様々な価値観に触れたことで転職志向を強くしていました。日本、マーティング、製造業、グローバル。このキーワードを軸に転職したのが現在の勤務先である化学メーカーです。入社後、新規事業の半導体向け材料の開発・製造プロジェクトに参加しました。仕事はずばりプロダクトラインマネージャーです。

転職から4年目を迎え思うことは、意思決定をするためにはやはりポジションパワーが必要だなということです。これまで属人的組織を嫌い、出世には興味を持たないようにしてきましたが、あるプロジェクトが頓挫したことが私の意識を変えました。責任は研究・開発部門にあるとされたのですが、メーカーで事業化する上で必要な知識を持たなかった自分にも大きな責任があると痛感しました。ゼロイチで事業を立ち上げ推進していくには様々な苦境があり、それを乗り越えていかなければならない。そこで重要な意思決定を行うためにはポジションパワーが必要なのだと悟りました。今後は意思決定ができる立場を目指したいとも思っています。また、今もっとも重要なのは実績を残すことだと思っています。実績を積み上げていった先にしか未来はないと考えるからです。

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松田 将志 (36)
経歴:

22歳 エネルギー商社に就職し、間接部門で会計や総務をしながら会社の全体像を学ぶ。

23歳 コア事業である産業ガスの営業部門に配属

23歳 半導体商社マクニカへ転職。

32歳 東日本大震災が発生し価値観が変化

32歳 日本×マーティング×製造業×グローバルを軸にし化学メーカーに転職


充実度

充実度: 71点

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