人間関係

研究者の道をあえて選ばない。ネットワーク設計の仕事でキャリアアップ

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東大在学中から、研究者にはならず早く就職して世の中に貢献できる仕事をしたいと考えていたと語る大川さん。会社の合併や上司との衝突をどう乗り越えたのか。子どものころから英語が好きで、将来は海外で仕事をしたいと思っていた大川さんが歩んできた人生についてじっくりお話を伺いました。

大学入学後ずっと、国際的な仕事を目指していた

子どものころから英語に興味があり、POPS系の洋楽ばかりを聴いて育ちました。きっと言葉の響きが好きだったのでしょうね。気に入った歌の詩はすべて自分で訳して、その意味を理解しようとしていました。英語以外にも勉強は好きでしたからずっと成績は良かったほうだと思います。

それでも勉強ばかりしていたわけではありません。中学時代は卓球部に所属していましたし、高校では水泳をやっていました。高校で水泳をはじめた理由は、練習風景を見学してみて和気藹々とした雰囲気を感じたからです。部がまとまっていて楽しそうだなと思いました。まあ部活も勉強も楽しくといった感じの高校時代でした。

高校卒業後は東京大学の理科1類に進学しました。数学・物理が得意で電気・電子系を学びたいと思ったからです。東大では国際交流会というサークルに所属し、外国語を学びたい日本人学生と日本語を学びたい外国人学生との交流アクティビティ推進を行いました。学祭でのイベント開催や京都・奈良への旅行などいろいろなことを企画していました。

英語が好きでずっと学んできましたので、自分は英語が得意だと自負していました。大学1年の時に、力試しの意味も込めてニューヨークに1ヶ月間語学留学をしたのですが、英語力への自信は無残に打ち砕かれました。ニューヨークのネイティブたちと会話をしてもまったく通じなかったのです。国際社会で通用する英語力を身につけなければいけないなと痛感しました。

研究者としてのキャリアより、世の中に貢献する仕事をしたい

東大工学部は学生の約6割が大学院に進みます。かなりの学生が研究者としてのキャリアを歩むわけですが、私にはどうもピンときませんでした。4年の時、何人かの大学院の先輩と交流を持っていましたが、彼らの研究の目的自体がよく理解できませんでした。自分の卒業論文すら世の中に対して何の意味があるのだろうと思っていました。よくわからない研究をするよりも、一刻でも早く就職して世の中に貢献できる仕事をしたいと考えていました。

大きな声では言えませんが、当時国内大手企業の多くに東大採用枠というものがあり、通常の採用とは異なり学内でその枠に入れば自動的に就職が決まる仕組みだったのです。

私は国際的な仕事がしたいという理由でKDD(現KDDI)を希望しました。当時は今のような携帯電話主体の会社ではなく、純粋に国際事業だけの会社でした。採用枠3名に対し4名が手を挙げたのですが、1人が辞退したためその枠に入ることができました。

卒業後、技術者として入社し国際データ通信のネットワーク設計を担当しました。主に海外に通信設備を置くための業務で、ニューヨーク・ロンドン・ドイツ・香港などの現地通信事業者やメーカーとの折衝をしつつ、通信ネットワークを作りあげていく仕事を任されました。長期での海外出張も多く、面白い仕事でしたね。
現地担当者とのコミュニケーションも何とかこなせたので、自分にとって仕事での大きな自信となりました。

こちらの部署で2年勤務した後、チーム丸ごとネットワーク計画部門へ異動することが決まりました。まあメンバー全員での異動でしたので、仕事内容が変わるだけという感じでしたけどね。

通信自由化を機に会社が合併。仕事へ危機感を持ちベンチャーへ転職を決意

規制緩和による通信事業の自由化により国際電話事業者の通信事業への参入が増え、一気に価格競争の時代に突入しました。Skypeの無料通話なんて全く無かった時代です。業績がみるみる悪化したKDDはDDIとの合併を行い新会社KDDIが誕生しました。しかし、合併のプロセスの中でKDD出身者はどんどん会社を離れていくようになりました。社内のパワーバランスもDDI出身者が優位に立つようになり、居心地の悪さを感じるようになりました。

多くの先輩同僚たちが会社を離れていく中、私もある先輩の後を追い転職を決めました。
しかし、転職して数年してみると、国際通信市場が伸び始めKDDIの業績も回復基調に。正直、これは判断を誤ったなと思いましたよ。転職先は丸紅の子会社で、グループ向けの国際ネットワークを手掛ける企業です。従業員数40名の小さな会社でしたが、丸紅グループという安心感がありました。この会社の社長は丸紅からの出向者で、完璧なワンマン社長。経営幹部もほとんどが丸紅からの出向組で、経営陣とプロパー社員との間には大きな溝が存在していました。

さらにこの会社には「その道のプロ」が存在しないことにも気付きました。KDDIで働いていた時は、優秀な人材が海外拠点含めてあちこちにいて、その人たちからあらゆる情報を得られることが当たり前でしたので、この変化にとても戸惑いました。新しい技術を追求するよりも展開スピードを優先するという企業カルチャーも、私にとっては大きな変化でした。

社長との衝突。悩みぬいた末に起こした行動

技術者として入社しましたが、徐々に営業としての役割が高まり提案型SEとして動くようになりました。営業のウエイトが高くなっても、自分はセールスマンではなく技術者であると思っていましたが。

仕事の広がりを実感しはじめたころ、社内に新規事業プロジェクトが立ち上がりリーダーを任されることになりました。映像回線の新しいテクノロジーを開発するプロジェクトで、将来性に期待できるものです。入社当時とは別の社長に既に変わっていましたが、このプロジェクトにおいては社長とリーダーの私との間で度々意見の衝突が起こりました。現場を無視した意思決定をされることもあり、自分も感情を抑えることが下手だったので、日を追って対立は激しくなっていきました。

やがて、私はプロジェクトを外され、降格人事を受けることとなります。

その後も社長と対立関係は続いていき、流石にこの状況は良くないと思いはじめました。先輩、友人、両親などに相談すると、円滑な人間関係の構築こそがビジネスの基本であり、意見を主張しすぎるのも良くないと指摘を受けました。「そうは言っても」という思いがあったのも事実ですが、自分にも非があることは認めざるを得ません。

後日、さんざん悩みぬいた末、社長に対し正式に謝罪をしました。これは正しいことをしたと思っています。今思うと、このことで一皮むけたような気がします。

企業にとって重要な意思決定を正しくできる人間でありたい

キャリアを重ねていく中で、経営者を目指したいという思いが強くなりました。「社長になりたい」のではなく、「企業にとって重要な意思決定を正しくできる経営陣の一角になりたい」と言ったほうが正確かもしれません。

設立から10数年、会社は設立時のビジネスモデルを保ったまま成長を続けてきましたが、ある時期以降成長には陰りが見えてきました。将来を見た時、新しいサービスの軸が必要であることは明らかでした。現在、私の仕事は新たな軸となる新規事業の構築です。

考え方の基本は既存ビジネスをベースに新しい事業。具体的には映像通信事業の強化ということになりますかね。これまでの映像通信事業はテレビ局などを対象に、ポイント・トゥ・ポイントで映像通信を行うだけのものでしたが、今後は映像制作・加工なども加えた「つくって届けるという」サービスにしたいと考えています。テレビ局など限られた対象ではなくあらゆる業種のクライアントに対してのサービス提供を目指しています。

この新規事業の成功こそが、未来へ向けたキャリアアップの重要なステップになると確信しています。重要な意思決定を正しくできる人間であること。そこを目指していきたいと思っています。

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大川顕央 (43)
経歴:

22歳 大手通信会社に就職

27歳 海外事業者とのJV立ち上げチームに参加

30歳 転職を決意

31歳 転職後の会社にてロンドンに駐在

39歳 当時の社長との関係が悪化

42歳 新規サービス立ち上げの責任者となる


充実度

充実度: 85点

業務上で成長実感やマンネリを引き起こす要因である6軸18項目を点数化した数値です。
インタビューイー様のキャリアの分岐点で、
その選択がどのような心理的な変化を産んだのかを点数化しております。

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