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ハンガリー人の私が日本で大学講師になるまで

日本の大学で、講師としてメディア文化論を教える傍ら、通訳、テレビ出演など幅広く活躍中のエメシュさん。ハンガリー人の彼女はなぜ日本の大学講師になったのか。自由な生き方を貫くエメシュさんの人生についてお聞きしました。

子どものころから学ぶことに貪欲だった

私はハンガリーの田舎町で生まれ育った生粋のハンガリー人です。
日本人にはハンガリーがどんな国なのかピンと来ない方が多いかもしれませんね。
ハンガリーは中央ヨーロッパにある共和制国家で、1989年にハンガリー共和国憲法が施行されるまでは、海外渡航も自由にできませんでした。
ですから、ハンガリーの人々が世界に出ていくようになったのはまだ最近のことなのです。
ハンガリーの教育体系では小学校は8年制ですが、私が7年生、13歳のとき、学校の授業のレベルがあまりに低くて学校に行くことつまらないと思いました。
親に相談すると、自宅学習で試験のみ受けて卒業すればいいと進められ、以後は通学せずに自宅で学習しました。
これは制度的にも認められています。
2年間自宅で勉強した後、無事試験に合格し卒業。
高校に進学することになりました。
ハンガリーは都市部と郊外との教育格差が大きく、いわゆる進学校は首都ブダペストにしかありません。
そのため、郊外に住む学習意欲の高い生徒たちは親元を離れ、ブダペストの全寮制の高校に進学します。
私も当然のごとく、自宅から200キロ離れたブダペストの全寮制高校に進学しました。

アメリカで感じた日本

高校に入り一気に世界が変わりました。
田舎での単調な暮らしとは異なり、人・モノ・文化が溢れる中であらゆることの選択肢が増えた気がしました。
毎日が楽しかったですね。
そして高校2年生のとき、半年間のアメリカ留学へ。
それが「日本」との出会いです。
留学先はフィラデルフィア。
初めて見るアメリカはまさに衝撃的でした。
まず驚いたのが学校の規模。
生徒数は2000人以上で、施設案内のMAPがないと迷子になりそうなほど敷地が広い。
アジア系、アフリカ系、ヒスパニック系など様々な人種の生徒たちがいて、そのスケール感に圧倒されてしまいました。
実際に授業を受けてみると、各科目ともレベルはそれほど高くないと思いました。
留学した目的は英語力を高めることでしたので、さして気にはしませんでした。
半年間のアメリカ生活で、私の人生に大きく影響を与えたものが2つあります。
ひとつは、自信を持つことの大切さを教えてもらったことです。
友達と会話していると必ず出てくるフレーズがあって、ことあるごとに「You can do it!」を連発します。
まるで呪文のようにこのフレーズを聞いていると、「絶対できる」と思うようになるから不思議です。
深い意味はないのでしょうが、前向きに物事を捉えることは大事だなと思わせてくれました。
もうひとつは、日本人生徒が話していた日本語の響きです。
イントネーションが美しく優しいトーンだなと感じました。
初めて接したアジア、そして日本。
ハンガリーから遥々やってきて、世界というものを垣間見ることができたのは貴重な体験だったと思います。

失敗しても挫けない

高校卒業後の数年間はいろいろなことにチャレンジした時期でした。
とにかく英語を学びたい一心で大学の英文科を受験しましたが不合格。
すぐに翌年の再チャレンジを決めました。
浪人期間を受験勉強だけに費やすのはもったいないと思い、映画吹き替えの専門学校に入学しました。
ハンガリーで公開される外国映画はすべてハンガリー語の吹き替え版で、字幕版はありません。
言葉だけの演技というものにすごく興味があったのでここを選びました。
声優のトレーニングはとても面白かったですね。
もちろん受験勉強は自宅でしっかりしました。
そして翌年再チャレンジ。
手応え十分で自信もあったのですが、またもや不合格。
さすがに2度目の失敗はショックでした。
それでもすぐに次を考えるのが私のいいところ。
私に英語は向いていないということ、それならばずっと頭の片隅に残っていた美しい日本語をきちんと学ぼうと思いました。
日本語の勉強をはじめてすぐに、父親からキャビンアテンダント養成学校の案内パンフレットを渡されました。
「面白そうじゃないか、やってみたらどうかな」 新しいチャレンジに目がない私です。
すぐに入学しました。
はじめてみると、これがまた面白くて、面白くて。
ドラッグ常習者の見分け方とか、機内でテロが発生した時の対処法とか、ここでしか学べないことばかりで楽しかったです。
そしていよいよ受験。
ハンガリーで日本語を学べる大学は1校だけ。
つまり、すべり止めなどなく、受けるのはこの大学のみです。
「これがラストチャンス」という覚悟で臨みました。
そして合格発表の日、この日は養成学校の最後の講義の日でもありました。
もしだめなら、キャビンアテンダントとして世界を飛び回る仕事をしようと思っていました。
結果は見事合格。
しかし思いは複雑でした。
自分にとってはフライトアテンダントという仕事も魅力的で、どちらを選ぶべきかすぐに答えを出せませんでした。
入学手続きの期限が迫る中、母親の一言で決心がつきました。
「CAとして飛ぶことはいつでもできるけど、学ぶのは今しかできないでしょ」 私は再び家を離れ、ブダペストの大学に進学しました。

日本の真の姿を知る

本格的に日本語を学ぶと、その美しさにどんどん惹かれていきました。
漢文、古文などの難しさには手を焼きましたが、日本語の仕組みを知れば知るほどさらに日本語が好きになりました。
そして念願の日本への留学が決まりました。
交換留学制度を利用して大阪外国語大学で1年間学ぶことになったのです。
来日して、日本が国際色豊かな近代国家であることに驚きました。
かつてドラマなどで見た日本のイメージとはまったく違っていましたね。
列車は定刻通りに運行されているし、人々は時間の約束をきちんと守る。
アメリカのような治安の悪さなど微塵も感じない。
なんという素晴らしい国だろうと思いました。
また大学には世界各国から学生が集まっていて、彼らとの交流も大きな刺激となりました。
じつは大学3年に進級すると同時に映画大学にも入学しました。
そこではテレビ、マスコミについて学んだのですが、日本語とテレビについて勉強したことが今の研究に繋がっているのです。

そして日本で大学講師として生きる

卒業後の進路も大いに悩みました。
CAになろうか、それとも日本語の活かせる仕事を探そうか。
可能性は低くともCAにはフライトでの危険があるということが気になってしまい、最終的にハンガリー日本人学校でハンガリー語を教える教師の道を選びました。
学校は教師、生徒すべてが日本人でハンガリー人は私だけでした。
ハンガリー語の授業以外、話すのはすべて日本語。
まるで日本にいるかのような気がしました。
こんな出来事がありました。
学校には校庭がなく、近隣の小学校の校庭を借りていたのですが、その使用を巡って日本人生徒がハンガリー人生徒と小競り合いになりました。
日本人生徒が私のもとにやってきて「ハンガリー人なんか嫌いだ」と言いました。
「先生もハンガリー人よ、先生も嫌い?」 するとその生徒は「先生はハンガリー人じゃないよ」と言いました。
少し複雑な気持ちでしたが、日本語を話す私を日本人として認めてくれたことは嬉しく思いました。
そして教師となって1年半が過ぎたころ、あるチャンスが巡ってきました。
日本の文科省が進める制度を活用すれば日本の大学院に進学できることを知ったのです。
厳しい審査をパスし、日本行きが決定しました。
29歳で来日以後、修士課程から博士課程へ進み、先日ドクター取得のための最終的論文を仕上げたところです。
現在、私はメディア文化論を研究し大学講師を務めています。
このテーマを取り上げるきっかけとなったのは、不祥事に対する謝罪会見をテレビでいくつも見たことです。
日本ではなぜ公の場で謝罪しなければならないのか?  ひとりの社員が起こした不祥事に対し、なぜトップが引責辞任にまで追い込まれるのか? 契約により責任の範囲を明確にする欧米の常識では考えられないことです。
私は大学講師としてこの日本独特の慣習、文化を深く研究してみたいと思いました。
持ち前の好奇心からか、大学講師としての研究の仕事以外にも通訳の仕事やテレビ番組への出演なども行っています。
とにかく新しいことへのチャレンジが大好きなのです。
私の生き方を自己分析するなら、人生の流れを待つ生き方。
それはすなわちチャレンジかもしれません。
次に私がやりたいと思っているのは日本とハンガリーの間の架け橋になりたいということです。
できると信じ、流れを待てば必ず夢は叶う。
そう信じています。

プロフィール

エメシェ コバーチ

エメシェ コバーチ

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経歴:

21歳 ハンガリー日本人学校でハンガリー語を教える

24歳 ハンガリーの高校でクラスを持つ。

34歳 武蔵大学での大学講師

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